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以下は2020/12/31に投稿したものです。

この本では20年近くアルバイト生活を送る古倉がコンビニを通して「普通の人間」となっていく過程を描いている。
古倉は小さい頃からいわゆる「変わった子」として育ってきた。
その性格は大人になっても変わらず、常識を獲得していく友人とは必然的に乖離していった。
しかし、大学生となった古倉はコンビニのアルバイト店員という仮面をかぶり、普通の人間として社会に溶け込んでいく。
大学を卒業した後もコンビニのアルバイトを続け、アルバイト店員のベテランとして働くある日、白羽と共に働くようになった。
一般社会と異なる価値観を持つ白羽と接するうちに古倉の生活に変化していく。
この物語を通して作者から読者に問題を提起しているように感じた。
それは「普通とは何か?」である。
身の回りには様々な普通が存在している。
「就職するのが普通」
「結婚するのが普通」
「子孫を残すのが普通」etc...
誰しもそのような社会に適合するプレッシャーを感じたことはあるだろう。
しかし、いずれ社会共通の価値観に順応していき、それを社会は「成長」と呼ぶ。
誰かしらと仲の良い関係を築き上げるべきであり、休日は外で遊びに行かなくてはならない。
恋人の有無はステータスとなり、大卒は社会人としてのスタンダードである。
そしてこのような行動を決定するのは自分の意志ではなく社会からの評価なのだ。
逆に、普通の人間から逸脱した人間は異端視され、迫害される。
一定の自由はあるものの、完成されたベルトコンベアの上を流されるままに進んでいくのが模範的な普通の人間である。
しかし、勘違いしてほしくないのは「ベルトコンベアの上から降り」る人間こそが普通の人間として定義すべきと主張しているのではない。
では、理想的な社会とは何か。
それは「ベルトコンベアという概念がなく、普通の人間が存在しない社会」である。
実は、白羽が文章中で話す通り、普通の概念は縄文時代から存在していた。
ムラという集団の中でオスは狩りを、メスは子供の教育をすることが普通の人間であり、それを行わない人間は役に立たないものとして追放されてきた。
よって、普通とは集団において都合の良い思想やそれに基づく行動ということになる。
こうして現在まで2000年間ずるずると引きずられてきた慣習をいきなり破ることは困難である。
では、どのようにして「ベルトコンベアという概念がなく、普通の人間が存在しない社会」を実現するべきなのか。
実はドイツの哲学者であるニーチェが実現のヒントとなる思想を生み出している。
この世界には権力や地位によって強者と弱者が分かれており、弱者は強者に対してルサンチマン(嫉妬)を抱いている。
そして社会に蔓延る善悪の基準はルサンチマンによって決められている。
弱気を助け強きを挫くようなドラマや映画がまさにその典型的な例である。
そして、そのようなルサンチマンの支配から抜け出し、自ら善悪の基準を定義した人間を「超人」と言う。
よって、普通とはルサンチマンを根源とする善悪の基準ということになる。
そして普通の人間をなくすためには社会全体として「超人」へと生まれ変わらなくてはならない。
前述の通り、普通という概念は縄文時代から続いており、集団行動において役立つものである。
しかし、それは時に視野を狭めてしまう諸刃の剣なのだ。
ドイツの物理学者であるアインシュタインは「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」という言葉を残している。
まずは普通を意識して疑ってみてはいかがだろうか。

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