以下は2021年11月7日にNoteに投稿したものです。
その日は友人と夕飯に行き、井戸端会議のためにいつも行く公園に向かった。
自転車に乗っていると風の音を遮るようにセミの鳴き声が聞こえる。
日は既に落ちているというのにセミは根気強く交配相手を探しているようだ。
交差点を曲がると、そこには先客がいた。
街頭で顔はよくわからなかったが、友人の名前を叫ぶ声が聞こえた。
近づくと彼らは昔のクラスメイトだった。
顔は知っているけど話したことはないに等しい。その程度の関係だ。
驚いたのは彼らの一人が原付に跨っているという光景だった。
勿論、原付がメインテーマとなり、様々な話を聞いた。
話を聞いている内に、今まで空の上にいた「免許」の存在が、唐突に現実味を帯び、強烈な違和感に襲われた。
それまでは免許の取得なんて考えたこともなく、頭を不条理な世界が覆い始めた。
それは、中学生がリクルートスーツを着る姿や所帯を持つ姿を想像する時に感じる、一種の気味悪さなのかもしれない。
また、一万円弱の金銭と数時間さえあれば堂々と第一京浜の真ん中を走れる、という紛れもない事実が今まで知っていた世界と乖離し過ぎている。
これが得も言われぬ感情を引き起こしている。
様々な視点からこの感情を思考しても、理解の放棄だけが返答される。
いや、理解はしているのかもしれない。ただ受け入れることを拒んでいるだけだ。
話しかけられたことに気づき、ふと我に返る。
まともに会話を聞いていないことを指摘されたらしい。
会話がどのように推移したのかはわからないが、ある人の話をしていた。
彼は学年に一人はいるような所謂「目立つ」人だった。(他人からの印象は知らないが少なくとも僕はそう記憶している。)
高校に進学して以来、全く話は聞かなかったし、特に興味も湧かなかった。
少し離れた位置から見ると不良の印象が強かった。
だから無免許運転について特別驚くようなことはしなかった。
時計を見ると11時前。
もう少しで補導時間に差し掛かるらしいので常套句を2、3放ってグループは解散した。
そして一人になり、自転車のスピードを少し落としながら、今感じている夜光雲のような気持ちについて考えていた。
漠然としながら免許に対する欲望が溢れ始めた。
ホンダもヨコハマも分からないのに、である。
空には風に身を任せるようにゆっくりと夜光雲が流れていた。
ある日、父親の運転する車の助手席に座った。
父親からバイクでの旅行話を聞いていた。
だから、こういう事に関しては一定の理解を得られると考えた。
そして、一連の話を砂糖水のごとく薄めて話した。
あまりに水っぽく、味気のない話題に対して似たような相槌を返してきた。
そんな事をされると余計支離滅裂な事を口にしてしまいそうになる。
一通り話すと、集中から解き放たれ、夕日の眩しさに気づいた。
背中は少し湿っており、不快感を覚える。
誰も好まないような空気の後、帰ってきた答えは「NO」だった。
返答を聞いた瞬間、意外と受け入れられた。
第一、バイクという物は手や足のように簡単に使いこなせるものではない。
冷静に考えてみればわかることだ。
多くは語らなかったが度々聞かされてきた旅行の裏には何度もの事故があったに違いない。
運転席の横顔を見るとそう感じ得なかった。
夜光雲は既に風に流され、夕日が入道雲を照らす。
一通りの理屈を構築した後、ふと例の「目立つ」人を思い出した。
彼は娯楽に関わるリスクを理解しているのだろうか。
すぐにでも来た道を戻って本人の肩を叩いて聞きたい。
いや、ある日のソクラテスのように、出会う者全ての回答を得たいのかもしれない。
それがYESでもNOでもこれ以上思想の進展は望めないと知りながら。
こうして文章を書いている最中も様々な思想が浮かんでくる。
「免許」という存在は社会において決して大きな存在ではない。
しかし、16の僕にとっては過剰だと自覚しながら大きな影を落とす悪魔なのである。訳の分からないような恐怖と戦っては埒が明かない。
だが、この恐怖に向けていた剣をしまっては、より大きな恐怖が現れることは自明なのだ。
もしかすると彼は同じような恐怖を抱えており、それが自分の(物理的、精神的にかかわらず)力を誇示していた理由なのだろうかと思う。
ならば、対極にいるはずの二人も同じ穴の狢なのではないのだろうか。
いや、この得も言われぬ恐怖は共通のものであり、それぞれがある程度の妥協策を出しているのかもしれない。
よって、この文章を妥協策の一つとして休戦協定とする。
ふと筆を止めヘッドホンを外すと、セミが独り小さく鳴いていた。
それは誰とも交わることのないままただ過ぎていく無情な時間を嘆いているようだった。
娯楽の裏には常にリスクが伴う。それは自然の摂理だった。